最首塾のおしらせ

最首塾関連の最新情報のお知らせをします。最首塾は最首悟さんを囲んで原則月一度開かれる勉強会です。

『ひろがる「水俣」の思い 水俣五〇年』

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最首悟丹波博紀編

作品社
2007/12
2,940円

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 →saishjuku@yahoo.co.jp(丹波博紀)

最首悟「『つづく』は『いのち』」より一部掲載

〔……〕
 死んだら花の浄土へと信じる人は少ない。逆に死んだら無と割りきる人も少ない。それは死んでリセットするという思いの別な表現なのだと思われる。そして死んでやりなおしたいと思う人は多い。リセットは「続く」ことを前提にしている。自力で自分の姿形を変えられると思う点で「いのち」を軽んじている。「いのち」をかけてとか、「いのち」にかえてとか、「いのち」にまさるとか、いずれも途方もない「いのち」の軽視である。トルストイは、窓の外を通り過ぎる人を見て、通り過ぎる間だけその人は生きたと思うのかと言った。その人は歩いてきて、そして歩き去ったのだ。窓枠を設定して、その中の出来事だけで、判断を下してはいけない。

 しかし窓枠の中こそ生身の世界であって、私たちの全てである。そこで耐え難い痛みやけいれんや吐き気やこむら返りが日常的に起こってきたらどうするか。当事者は耐え難く、傍に付き添う者にとっても耐え難い。そして傍にいる者にとって耐え難いことはもう一つある。自分で排泄の始末もせず、言葉を発せず、およそ物を掴まず、したがって、ご飯を自分では食べず、痛みを表現できない人を傍にして、どうしたらいいというのだ。その人が微笑んだりしたらどうしたらいいというのだ。どうしたって窓枠の外へ想像を馳せる。そして窓枠の外が甘く幸せな世界で窓枠の中が不幸、不運とイメージして、この日々を耐えられるか。そうはゆかない。

 この耐え難い日々をもしそれが人為によるものだとしたら、いささかなりとも抵抗し、そのことを含めて、この耐え難い暮らしの意味を積極的に求めなければ耐えることは出来ないのだ。V・フランクルアウシュビッツの窓枠の中で、一人の妻、一人の友、一人の神が自分を注目していることに意味を求めた。しかし窓枠の外は一点に収束せず、無際限にひろがるとしたら、むしろこの窓枠の世界こそが時間の流れの中の結節点だとしたら、窓枠の外はもっともっと賑わい、ざわめているかもしれない。存在のざわめき(ドゥルーズ)、気配たちの充満(石牟礼道子)、すなわち「いのち」の際限のない奔流である。いずかたからいつ流れ出しどこへいつ流れ着くか知らず、ひたすら「いのち」は溢れ流れゆく。

 「いのち」は「つづく」と同義である。その「いのち」が分有としてたまゆらとなる。互いに触れあい、ぶつかりあって響く。きっとたまゆらはお互い努力すれば、澄んだ音も豊かなハーモニーもつくりだせるのだ。何のためにか知らず、しかしそれが希望なのかもしれない。永遠の独存の旅人として、「いのち」と分かちがたい存在として、気配として有り続けることを予感しながら、私たちはたまさかのたまゆらとしてここに居る。