最首塾のおしらせ

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『近代化のねじれと日本社会』

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竹村 洋介

批評社
2100円
初版発行年月:2004年09月
ISBN978-4-8265-0405-8 C3036

■著者からのメッセージ■
「地球を覆う近代市民社会に堕ちた男」

 いや、近代市民社会に生まれ堕ちたのは、男だけではない。女性も近代市民社会に生まれおちるほかない。もちろん、未だ近代化の波が押し寄せていない社会に生まれた人々もいないわけではない。が、それは数からいえば、ごく少数にとどまるだろう。大半の人々が近代市民社会に生まれ、育つしかないのだ。

 しかもその近代市民社会たるや、理念型(典型的な形、理想型)ではなく、近代市民社会の公式的理念からは、はるかにかけ離れた、そう、あとの時代から見れば滑稽としか映らないようなしろものだったのだ。いや、今に至っても、後の時代から見れば、滑稽な近代化の過程を歩み続けているのかもしれない。

 この滑稽な近代化は、原爆を生み、水俣病を生み出した。しかし、それでも僕は、近代化を頭から否定することができないのだ。もちろん、どんどんグローバライゼーション(=アメリカン・スタンダード)という名の近代化がどんどん進めばよいと思っているわけではない。しかし、この地球規模を覆う近代化、産業化をのりこえるエクソダスは、いったいどこに本当にあるのだろうか。

 この問いに正面からまともに応えるのは、きわめて難しい。それゆえ、サイドからこの現存する近代社会が自明視していることの滑稽さを暴き出すという戦略をとった。なぜ、子どもは学校へ行って近代市民にならなければならないのか?ラジオ体操などという世界でもまれな国民体操を、ほとんどの日本人は踊ることができるようになってしまったのか。それによって僕たちの身体はどのように形成されてしまったのか?夏休みのラジオ体操など当たり前のことのように自明視され、疑いも差し挟まれないが、それがもつヒドゥン・カリキュラムはいったい何なのか。日本中の何千万という人が、それが持つ強力なナショナリズム性を意識もせずに共鳴し、共振する。(中島らもは、ステージの上で、日の丸に黒スプレーでいっぱい落書きして、それをオークションにかけるという大胆なパーフォーマンスをおこなったが。惜しい人を亡くしたものだ、いや、その死までも、彼一流のパーフォーマンスだったといえるかもしれないが)。

 逆に、フリーターや社会的ひきこもりは、どうしてこのように問題視されてしまうのか。皮肉にもフリーターがいなければこの高度資本主義社会は成立しないし、ひきこもりの人たちが(齋藤環がいうように本当に何十万、何百万いるとすれば)社会に出てきて働きだしたら、大失業時代がおとずれることになるだろう。

 前半はこのように、個人に内在化されてしまった「近代化」の滑稽さを暴くことにつとめた。逆に、後半はそこからのエクソダスを探すマクロな動きに焦点を当ててみた。グリーンズ(緑の党)は、本当に資本主義でもない、現存した社会主義でもない産業主義を乗り越えた「第三の道」を歩んできたのだろうか。結局、社緑連合、赤緑連合に飲み込まれてしまうのか?この答えはまだでていない。20年前に書いたものと、その後のヨーロッパ政治をフォローした論文で、その歴史的展開をおってみた。そして、この産業化を支えてきた通貨とはいったい何なのか、ユーロや、今しきりに実験がおこなわれている地域通貨、そして通貨の究極の形としての電子マネーの検討を通してその意味を考察した。

 どの章から読み出してもらってもいい。また、近代化のねじれは、この本で書かれた6つの章で取り上げられた問題だけではない。まだまだ他にも、滑稽さをもって近代化はばく進している。それをすべて記述しようとすれば、山ほどの厚さを持った書物を必要とするだろう。しかし、この本で取り上げたテーマだけでも、近代市民社会を生きざるえない僕たちが、いったいどこにいるのだろうか、朧気ながらもマッピングすることは、ある程度、可能になるはずだ。近代化の光と陰、しかし、そこに日常性を生きる人々のアクチュアリティは、たとえ後の時代から滑稽に見えようとも、意外とこんな所に転がっているのだ。

 「農耕する身体」、「戦闘する身体」、工場「生産する身体」、「生活する身体」あるいは、「社会的自己実現」、「内的自己実現」など、今までになかった新しい概念も提議してみた。これも、僕たちが、近代市民社会のどこにいるかを明らかにするために作り上げた概念である。エクソダスはない、いや正確いえばそれは提示できなかった。それは、不可能なことだと僕は思っている。それゆえ、まずこの近代社会に生まれおちた者として、私たちがどこに立っているかを探し出そうというアプローチをとった。もちろん、ハウツー本ではない。しかし、ここに書かれたことをもとに、この近代市民社会の中で僕たちはいったい何をしているのか、読者である皆さんが考えるヒントになれば、僕としては充分に満足だ。