最首塾のおしらせ

最首塾関連の最新情報のお知らせをします。最首塾は最首悟さんを囲んで原則月一度開かれる勉強会です。

【インフォメーション】シモーヌ・ヴェイユにかんする二つのイベント(うち一つは佐藤真「阿賀に生きる」論)

みなさま
 
寒くて冬眠の準備を始めたい今日この頃ですが、いかがおすごしでしょうか?
 
最首塾特任講師の今村純子さん(慶應大学シモーヌ・ヴェイユ論)から二つインフォメーションをいただきました。
 
一つは日本倫理学会で、佐藤真「阿賀に生きる」論を発表されるというものです。最首塾と大変ゆかりの深い内容です。
 
これは本年4月に今村さんが最首塾にお越しくださったことが一つのきっかけとなったものとのことです。発表要旨もいただきましたので、下に貼り付けます。
 
またもう一つは『シモーヌ・ヴェイユ詩学』の刊行を記念したトークイベント「シモーヌ・ヴェイユ――映像と芸術をめぐって」が六本木の青山ブックセンターにておこなわれます。港千尋さんとのトークになります。
 
港さんは今村さんのご本に推薦文を寄せられております。
 
それではくれぐれも風邪をお引きにならないよう、お過ごしください。
 
丹波博紀
 
 
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美的なものと倫理的なもの――佐藤真監督『阿賀に生きる』をめぐって――
 
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日本倫理学会大会第61回大会 於 慶應義塾大学 10月9日
 
★第5会場 (西校舎 522教室・司会:壽 卓三)
09:30-10:10 
今村純子 
「美的なものと倫理的なもの――佐藤真監督『阿賀に生きる』をめぐって――」
 
 
□■□発表要旨□■□
 
美的なものと倫理的なもの
――佐藤真監督『阿賀に生きる』をめぐって――
 
                        今村純子
 
私たちが真に社会問題を考察しようとする際に不可欠なのは、ひとたび生々しい現実から切り離された、それぞれの想像力が十全に働く「無の場所」である。そして、優れた芸術は、この「無の場所」において、それぞれの〈いま、ここ〉との類比を可能にする。このとき、私たちは、他者の苦しみや痛みを、自らのうちに溢れ出る美の感情を通して、真に自らのものとして捉えうる。このことは、石牟礼道子の小説『苦海浄土』(一九六九)が、水俣病に関心のない人々をも含め、多くの人々の心を揺り動かし、覚醒させ、自覚と倫理との一致へと突き動かしたことを考えれば、足りるであろう。
 
それでは、この想像力が十全に働きうる「無の場所」を、映画という芸術は、どのようにして提示しうるのであろうか。『阿賀に生きる』(一九九二)は、新潟水俣病をモチーフにしたドキュメンタリー映画である。だがこの映画には、水俣病そのものの恐ろしさや差別や権利要求の姿はあらわれてこない。この映画が映しだすのは、阿賀野川とともに生きる人々の、ただただ「働くということ」において義務を果たすその姿である。それが、一瞬の表情、一瞬の沈黙に、かぎりない美的感情をともなって映し出されてくるのである。この映画は、監督自らが述べていいるように、「一本の川を通して見え隠れする歴史と時間の叙事詩」なのである。
 
そして、この映画が、この美と詩の背後に提示する水俣病の恐ろしさとは、「水俣病」そのものでも、「チッソ昭和電工)」でも、「有機水銀」でもない。そうではなく、高度経済成長という時代背景をもつとき、毒だと分かっていて海や川に有機水銀を流してしまえる心性が私たちのうちにきざしてしまうということであり、さらには、「チッソ昭和電工)」が海や川に毒を流した事実よりも、地域の政治・経済・文化の発展を寄与している事実のほうが優先されてしまう、社会が私たちを縛るその力の強度である。悪は悪の相貌をもって立ちあらわれてくるのではない。そうではなく、まったくの善の相貌のもとに、私たちに同意を迫ってくるのである。そして、美と詩だけが、それぞれの人間の内側から、そうした善の相貌をもつ悪を解消させうるのである。
 
本発表では、映画『阿賀に生きる』を考察することを通して、ドキュメンタリー映画が、物音と物音のあいだの一瞬の沈黙、表情と表情とのあいだの一瞬の眼差しのうちに、「言葉にからめとられる以前の世界」を、鑑賞者の美の感情を湧き起こすことによって映し出すことに着目し、ドキュメンタリー映画がひらく倫理の地平を開示してみたい。